できるword95(改訂版)と書かれた書籍の表紙

夢で逢えたら

月日が過ぎると、人の記憶はあてにならないもので
どんなに強烈な記憶でも薄れてしまっていく。
今年2008年7月7日。あれから8回目の命日を迎える親友

不思議なものというか当たり前というか、
自分は年とっていくものの、脳裏に浮かぶ、
ため口をたたく彼の姿は34才の若者である。

今日は、インターネットの人々が今なお、
微かに思い出す(私にとって今もなお偉大な親友である)
彼の姿を、日記に残しておこうと思う。
そんなわけで、苦手な方はすいませんが、スルーしていただきたい。


彼という編集者は、大学の一年目から学生誌の編集に携わる時から培われたのか、
さらにその前からの才能かははっきりしない。
わかっているのは、私が知る限り、情熱のほとんどをその学生誌に注いでいたということだ。
そこでの編集長という肩書きが、その後の彼の希望する未来を編集者と位置づけたと思う。

なにかと関わりの合った私は、同じ学部の学生として、よく集まって飲んだり話しに明け暮れたりした。
社会人になってからは、ASCII出版社に入り出版の仕事に携わる。
そのころASCII社はソフトと出版物の二本立てで成り立っており、ソフトに徐々に比重が高まって行く時期だった。
(私は素人なので、この辺は専門家は異論を唱えるかもしれない)

そんな中、INPRESS社を創立するメンバーと共に会社を移る。
彼は、飲むたびに「さそってもらって、うれしかったなあ~」と回想していた。

彼は、庶民的な正義感を持つ編集者だった。
大上段に振りかざすのではなく、一般人に近い感覚で、
かつその中で正しいということをしていこうと考えていたように思う。
そんな例がこれ。なんとも彼らしいと思った。

彼は自分のやりたい目標を常に持っていた。
もちろん、彼だけでなく、多くのメンバーが議論を重ね、出来上がったであろう「できるシリーズ」
今でも、インプレス社の主要書籍のひとつと思う。

できるword95(改訂版)と書かれた書籍の表紙

彼は、会社のメンバ、記事を書くメンバだけに飽き足らず、酒の席(自分に家だが)にもこれをもってきて意見を聞いていた。(もちろん、酒仲間の意見がどれほど反映されたか定かでないが、どこの意見も誠実に貪欲に彼は 聞いて回っていた。その一例である)
それまでの書籍は、ウインドウズが出たと言っても、画面イメージを貼り付けながら説明する
という文書が皆無だったし、それが当たり前だった。

そんな中、彼の「画面イメージと共に説明し、内容を記述していくやり方」
当時革新的な本として扱われた。今では、ほとんどのハウツー本が彼の手法を踏襲している。
愚痴もよく聞いた。異例の出世で、書籍の編集長を務めることになった彼
(まあいわば部長のようなものと彼は表現していた)
「言ってみれば、編集長の仕事しろって言われながらも、若いから実務もこなせって言われるんだよねえ」
今では、多くの会社でプレイングマネージャーが多く、
社会問題にもなっているがある種それの先取りした悩みを彼は抱えていた。

それでも、仕事が大好きだった。読者も大事、記者も大事。全ての人を大事にしようと考える男だった。
彼の残したHomePageに、「原稿を疑い、著者を信じよ」というくだりがある。
彼の求める編集者とは、記事を書くものと共にあり、時に叱咤し、それを育てるものであった。

「○川みたいに、書籍の資産が一杯あれば、それを元にして映画だってできる。
しかし、うちは始めたばっかり。何の資産もない。
資産のない出版社がどれだけ厳しいか。。だから立ち止まっちゃいられない
常に挑戦しないと駄目なんだよ」

そんな風に辛い酒を口に注いでいた彼の会社も、多くの書物を保有するようになった。
そんな会社の人々は、今も彼の切羽詰った思いと同じ感覚でいるだろうか。
(創始者達の思いで、彼のHomePageは特別功労者のHomePageとして今なお残されている。
その想いが、これからの編集者達へと受け継がれている事を願わずにはいられない)

新し物好きな彼は、インターネットを使っていろいろな実験に挑戦した。
インターネットを使ったテレビ電話で、ミーティングを持ったり写真を投稿させたり、
「窓の杜」という企画にも、一部関わっていたようだった。(詳細には聞いてないが)
フリーソフトを一箇所に集めて検索できるアーカイバはそれまで存在しなかった。

多くの人が評するようにメールマガジンの創始者、5行ルールの創始者などといわれているが
彼の原点は、面白いものを、面白いまま読者に伝える。その反応が知りたいと言う事だったような気がする。
インターネット人として、CSなどにもよく出演し独自の切り口で解説していた。

「お前さ、スカパーはいってるんだよな。あの番組取れない?」
「番組ごとに、購入料がかかるからなあ」

「そっか~。いや、収録はするんだけどさ。実際見てないモンだからさ、どんなものかと、、、
親も全然信じないし(爆)^^)」

そんな彼もBSにも出るようになって知名度も上がり、ますます多忙な時期に、入院と相成った。

それからはガンとの戦い。奥さんと一緒の闘病生活は余命3ヶ月といわれた寿命を2年以上延ばした。
その中でも、働きながらガンと戦うことを選んだ彼。
彼の生活の仕方はNHKの「世紀を超えて:がんと戦う」という番組で特集された。

定命という考え方がある。
どんなにいい人でもすぐに亡くなってしまうことがある、
でもそれは決して悲劇と言うものではなく、
定められた中でしっかりと生きたのだと。。。

彼によって虚ろになった部分をそんな考えで包んで今も私は生きている。
彼のようにがむしゃらに生きられないかと思った時期も有ったが、むしろ自分なりの生き方を見つけるのが彼も喜ぶかな。。なんて手前勝手な考えで、キャンプを楽しみ始めた。

「楽しいぞキャンプは、、お前もどうだ。」そう彼にいいたい。
あれから約10年で、世の中はめまぐるしく変化した。
「これっていわば大人のトーイグッズだよね」
そう彼が称した通話だけの携帯電話は、小学生から老人まで持つのが当たり前の時代になり、

「まだ20万画素じゃあ商品価値はないよなあ」
と言っていた、デジカメが一眼レフまでデジタルで撮られる様に変貌した。

メールが携帯で見れ、TVや財布も携帯に偏る今の世の中、もし君が見ていたら何ていっただろう。
便利な世の中になったといっただろうか、それとも陰に隠れた危険性を注意喚起しただろうか。(こんな風に

プリペイドカードの規格の乱立を見て笑っただろうか(こんなことも)、一本化の調整に乗り出したろうか
Blogだって、君がほっておくはずがない。どんなことをどんな風に書いただろう。。。
40才を超え円熟味を備えた君がどんな人物になったか、そう思うとなんともやりきれない思いになる。

いつも、困難なことがあると駆けつけてくれた親友。
年はひとつ下だったが、兄のような信頼感を常に君は備えていた。
だから無理を承知で言いたくなる。

7/7七夕の夜、銀河鉄道で、妻と息子のもとに急ぐ君へ。
少し時間があれば、悪いが寄ってくれ。

夢で、待っているから

 

 

彼のHomePage:
Ken’s Home Page

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空の向こうの友へ。。。封印をとくよ

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